2005年4月13日

悩んだけど、敢えて書きます。


朝5時。家の電話が鳴る。近くに住む祖父がかけてきたのかな?と思った。眠いので、出る気なし。

2回目の電話。妹が出たらしい。電話を切って少しの間があり、私に声をかけてきた。

父の入院先からだった。
あわててトレーナーとジーンズを掴み、適当に髪をしばり家を出た。

“大丈夫。大丈夫。”と言い聞かせながら、運転。

病室に着くまでは、本当に大丈夫だと思ってた。
大丈夫じゃなかった。

涙があふれてきた。医師は「もう心臓マッサージをしても戻る確率はないに等しいです。どうしますか?」と私達、家族に聞く。私は泣きながら「これ以上、頑張らせるほうがかわいそうだ。」と言った。皆も頷いた。

朝6時7分。

父はもう皆とは会えないところへ行ってしまった。










父は物静かでしたが、おちゃめというかダジャレが大好きでした。

小さい頃、父に抱っこされるのが大好きでした。子供に甘い父は兄弟誰かの誕生日には他の兄弟の分も合わせて3人分のプレゼントを買ってしまうほどでした。

へんななぞなぞも好きでした。“おい、ピッチャーが片足あげてボールを投げるのはなんでか知ってるかい?”うーーん。と考える私。“両足あげると転ぶから!”得意気にいたずらっ子の笑顔で答えるような人でした。

少し偏屈なところもありましたが、私がピアノを習い始めると夜、練習を手伝ってくれたり、私達には優しい父でした。もちろん母とも仲良くしてました。

父はアマチュア無線が趣味でした。無線のコールサインがすごく古く、免許制度ができてすぐに取得したっていうのが彼の自慢でした。

ピンクレディのコンサートにも行きましたね。リアルタイムのやつ!!先日、復活したコンサートに行った時は思い出して泣きそうになりました。

新居も建て、家族は順風満帆のように思えました。

私の反抗期、そして父の発病までは・・・。










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父は少しずつ少しずつ病魔におかされはじめました。私の一番、反抗期が強い頃でした。

思春期ゆえに両親には反抗することしかせず、父との溝は深まりました。

反抗期の頃を過ぎても、“近すぎる存在”のため謝ることもできず、父も意地になっていました。
病名を父は誰にも言いませんでした。職業病とか四十肩だ、とごまかしていました。

そして、ある日のこと“パーキンソン病だ”と知ったのです。

病名を知り、病気について勉強してもなお、父との溝は深いまま。私だけではありません。家族みんなと父の間に距離ができてしまっていたのです。

その距離が縮まって仲良くできるようになったのは、ここ数年のことです。

これからだ。っと私は思っていました。たくさん話をすることで、父は嬉しそうな顔をするのです。私は医者ではありませんから治療はできないのです。くだらない話の相手になってあげようと思っていました。

この日記を読んでくださってる方々は私自身が鬱病の治療中だっていうことを知ってると思います。

どうしても鬱の時には父のもとへ行くことができないこともありました。

私は今、口では表せない程の後悔をしています。
なんで、もっと早く父に優しくしようって行動に移せなかったのだろう?鬱を言い訳に父から逃げてたんじゃないだろうか?

ただ、最後に話ができたのは去年のことですが、その時、私を見て嬉しそうにいつものダジャレを言って、次の見舞いには“今川焼”をリクエストし、ばいばーいっと手を振りながら“またな”と父は言いました。笑顔でした。

残された者の勝手な解釈かもしれません。でも父は冷たくしてしまった期間のことを許してくれたんじゃないか?って思うのです。

私に悪いところがあったように、彼にも悪いところはありました。

いろんなことがありすぎて、ここには書ききれませんが、はっきりと言えることは。

私は父を愛していました。うまく愛情表現できなくても、大好きでした。
もう“ありがとう”と直接は言えなくなってしまいましたが、父の遺影に向かって、毎日“ありがとう”と言うことにします。
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by blue-panda1974 | 2005-04-13 02:46 | パンダ日記2005  

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